大衆か、王侯貴族か。日本のものづくりの限界と民主主義

 最近、腕時計に興味があり、ネットでよく見ている。

しかし、欲しいのは、数百万円もするので、買えない。

それはさておき、これで気づいたのが、日本のSEIKO, CITIZENは、技術は世界最高峰だが、海外では、安くて良い製品という認識である。

TOYOTAのLexusの時計版とも言えそうな、Grand Seikoは、数百万円もする超高級品もあるが、30万円くらいのものがかなりある。

そう言えば、日産のGTRも、ヨーロッパのスーパーカーに比べると、やはり安くて高性能のスポーツカーに過ぎない。

とにかく、日本製品は、概して、安くて超高性能だ。

でも、ヨーロッパの高級ブランドと同格にはなれない。

それはなぜか?

それは、日本製品は、大衆向けと言う大鉄則があるからだ。

LexusやGrand Seikoのように、ラインナップの中には、超高級ブランドもあるが、企業全体としては、まずは大衆向けなのだ。

SEIKOにしても、 CITIZENにしても、3万円前後に、非常に魅力的なモデルが数多くある。

そこがボリュームゾーンであり、30万円以上は世界の高級ブランドに比べれば安いけれど、ボリュームゾーンにはなり得ない。

一方、ヨーロッパの高級ブランドは、金のことなど歯牙にも掛けない、王侯貴族が顧客であり、一般大衆向けではない。

最高の製品を、最高の価格で、最高の人たちへ、という発想で作っている。

だから600万円だの、1000万円だの、誰が買えるんだ?という時計しか作らないブランドが存在する。

ここが、日本製品の限界である。

だが、同時に、世界の歴史は、民主主義の歴史でもある。

そういう点からすれば、王侯貴族にしか手に入らなかったであろう超高性能の製品を、大衆向けに、安価で提供するというのは、人類の思想の最先端を体現しているとも言える。

つまり、歴史の扉を常に開け続けているとも言えよう。

もう、眠いからおしまい。

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