東京府仮小学6校が設立された地域

 東京で一番古い小学校について昨日書いた。


明治3年に、東京府は、東京府仮小学6校を、後の芝区、麹町区、牛込区、本郷区、浅草区、深川区に設立した。


その際に気になったのは、明治3年当時、その地域は何と呼ばれていたことだ。


そこで調べてみると、まず明治3年(1870)は、なんと、廃藩置県の一年前であった!


廃藩置県後の明治4年(1871)に東京府は、大区小区制を採用した。


東京を第1区から11区の大区に分けて、その中に103の小区を設けた。


明治11年(1878)に郡区町村編制法が施行されて、大区小区制は廃止になり、それまでの第7区から11区は、荏原郡、東多摩郡、北豊島郡などの郡になる。


そして第1区から第6区は、先ほど書いた芝区、麹町区、牛込区、本郷区、浅草区、深川区を含む、東京15区に分割された。


第1区から第6区は、もともと江戸時代に朱引と言われる地域であった。


朱引は、1818年に、老中阿部正精(あべのまさきよ)が示した、幕府公認の江戸の範囲で、大江戸の地図に朱色の線で囲まれた地域だ。

だいたい現代の明治通りの内側である。


さらにその内側に、江戸の地図を黒色で囲んだ、墨引という範囲があり、そこは時代劇でおなじみの、北町・南町奉行所が直接管理する江戸の中心部であった。


だいたい現在の大江戸線の内側ではないだろうか。


つまり、東京府仮小学六校は、旧朱引を六つに分けた大区に一つずつ設立したというわけである。


ここまで書いて、一件落着な感じがするが、大区小区制は明治4年からである。


では、東京府仮小学六校が設立された明治3年には、その地域はなんと呼ばれていたか?


結局わかんないんだよね。


やっぱり、区をつけない、芝、麹町、牛込、本郷、浅草、深川って呼んでいたんじゃないかな。


なお、ここまで関心を持ってしまったので、今日は実際に石碑を見てこようと思い、家から一番近い文京区立湯島小学校へ行ってみた。


今日は湯島天神のお祭りだったが、湯島小学校はその近くにあった。


湯島小学校は、明治3年には、その向かいの霊雲寺にあったはずなので、そっちも行ってみたが、どちらにも石碑は見つからなかった。


もしかしたら、湯島小学校の敷地内にあるのかもしれないが、中には入れないので、確認できなかった。


ひょんなことから興味をもった東京の小学校の歴史であったが、調べている間に、秋葉原やお茶の水界隈は、東京大学の医学部や東京外語大の発祥地であることもわかった。


なかなか有意義な時間が過ごせた。





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